おやじの朱印帳

高台寺

Dsc00042_311 京都の高台寺は豊太閤の正室、北政所(高台院)が建立した禅寺。

それほど、規模の大きな寺ではないが、ねねが生涯を過ごした寺らしく、禅寺でありながらどこか、女性の感性が感じられる「美しい」情景をもっている

朱印には「仏心」と書かれている。

秀吉亡き後、秀頼の後援者であらねばならない自分と秀頼の母である淀君との確執。
豊家の滅亡を止めることができなかった北政所の悲しみ。

戦国時代を生き、頂点に立った男の正室でありながら、悲しみも多かった。

そんなねねを支えたのが、この朱印のように 丸い、包み込むような 仏心だったのではないだろうか。

高台寺には秀吉・北政所愛用の工芸品が数多く遺されている。

とくに、当時の最高傑作である蒔絵工芸品は「高台寺蒔絵」と呼ばれ、時の最高権力者のみが作りうる最高の蒔絵作品となっている。

高台寺では、これらの蒔絵工芸品をじっくりと眺めることもできる。

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護王神社

Cimg0031_1 京都、上京区の護王神社。

奈良時代末から平安初期に功績のあった和気清麻呂を祭神としている。

奈良時代の根本史料である「続日本紀」巻第三十、神護景雲三年九月の条に、

…阿曾麻呂、旨(うまき)をねがいて道鏡に媚び事(つか)ふ。因(よりて)八幡神の教(みをしえ)といつわりて言(い)はく、「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば、天下太平(あめのしたおほきにたいらか)ならむ」といふ。道鏡これを聞きて、深く喜びて自負す。…

とある。つまり、阿曾麻呂と言う人物が道鏡に媚びを売って、道鏡もその気になっちゃったわけである。 

そして、称徳女帝は清麻呂を呼び、「夢の中で、八幡神のお告げがあると聞いたので広虫(清麻呂の姉)を宇佐まで送り、お告げを聞いてくるようにせよ」と命じた。しかし、宇佐は遠路なので広虫のかわりに清麻呂がでかけることとなった。

いわゆる宇佐八幡宮神託事件のはじまりである。

Cimg031511 清麻呂は道鏡にも呼ばれた。道鏡は「八幡神が使いを送れと言うのは、私が即位することを告げるためである。この重要な仕事には高い官爵をもって応じる。」という圧力を加えた。

広虫・清麻呂ともに称徳女帝に重用され、信頼をうけていた。よもや清麻呂がもたらす託宣が道鏡の夢を打ち砕くとは思ってもみなかっただろう。

清麻呂は『我が国家(くに)開闢(ひら)けてより以来(このかた)、君臣定りぬ。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天(あめ)の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうしょ=皇室)を立てよ。無道の人はすみやかに掃(はら)ひ除くべし』(続日本紀)との託宣を伝えた。

道鏡は激怒し、清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ大隅国に配流。広虫も狭虫と名を改められて備後に流される。

京都の護王神社には「いのしし」が多く飾られている。上の写真には狛犬(こまいぬ)ならぬ狛猪(こまいのしし?)が、左の手水も猪の口から水が流れ出している。その背後にあるガラスケースの中には数え切れないほどの猪が飾られている。

Cimg0030_1 なぜ、護王神社は猪を飾っているのかというと、配流地の大隅に向かう和気清麻呂を亡き者にするため道鏡の命をうけた暗殺団が送られるが猪の大群が彼らを倒し、清麻呂を守ったとの話が伝えられているからである。
 称徳天皇がにわかに病に倒れたことによって道鏡の政治権力は失われ、逆に下野國薬師寺別当に左遷させられることになる。

続日本紀には『…今、先聖の厚恩を顧みて、法によりて刑(つみ)に入るることを得ず。故(かれ)、造下野國薬師寺別当に任して発遣す。…』とある。

天皇になろうとした男、弓削道鏡は夢かなわず、下野國で2年後に没する。

和気清麻呂と広虫は許されて都に戻る。

その後、桓武天皇の時代となり清麻呂は平安京への遷都についてもその中心となり、功績を残すこととなる。

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青蓮院

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京都、粟田口にある青蓮院。ここで頂いたご朱印には

「明日あると思う心の仇桜
   夜半に嵐の吹かぬものかは」

 
という範宴(後の親鸞)の有名な歌が書かれています。

この歌は親鸞9歳の時の歌だそうです。

時の第三代青蓮院門主であった慈円のもとで親鸞が得度することになりました。
準備が遅れ、夜になってしまい、
「明日にしよう」といって気遣う慈円に対して歌ったと言われています。

 

このとき、慈円27歳。親鸞9歳・・・しかし、今で考えれば、小学校3年生の男の子が、27歳のおじさんに、こんな歌で「今日得度したい」という自分の気持ちを伝えられるんでしょうか?
 

いや~やっぱり、宗祖親鸞聖人はすごい人だったんですね。

この得度以来、明治になるまで本願寺法主は青蓮院で得度することが慣例になったそうです。

そんなわけで、青蓮院と親鸞聖人は切っても切れない間柄であり、天台宗の寺院ですが、この寺域に本願寺が建てられることになります。

思えば、「愚管抄」を書いた慈円と親鸞がこの地でこんな話をしていたと考えるだけで、歴史の中に入り込んでいくことができます。


それにしてもこのご朱印、やっぱり青蓮院流なんですかね。達筆じゃ~うるうる

山ちゃんの場合は、「明日あると」思って疑わないわけで、ここはひとつ、考えねばならないかな(^^;

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