京都、上京区の護王神社。
奈良時代末から平安初期に功績のあった和気清麻呂を祭神としている。
奈良時代の根本史料である「続日本紀」巻第三十、神護景雲三年九月の条に、
…阿曾麻呂、旨(うまき)をねがいて道鏡に媚び事(つか)ふ。因(よりて)八幡神の教(みをしえ)といつわりて言(い)はく、「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば、天下太平(あめのしたおほきにたいらか)ならむ」といふ。道鏡これを聞きて、深く喜びて自負す。…
とある。つまり、阿曾麻呂と言う人物が道鏡に媚びを売って、道鏡もその気になっちゃったわけである。
そして、称徳女帝は清麻呂を呼び、「夢の中で、八幡神のお告げがあると聞いたので広虫(清麻呂の姉)を宇佐まで送り、お告げを聞いてくるようにせよ」と命じた。しかし、宇佐は遠路なので広虫のかわりに清麻呂がでかけることとなった。
いわゆる宇佐八幡宮神託事件のはじまりである。
清麻呂は道鏡にも呼ばれた。道鏡は「八幡神が使いを送れと言うのは、私が即位することを告げるためである。この重要な仕事には高い官爵をもって応じる。」という圧力を加えた。
広虫・清麻呂ともに称徳女帝に重用され、信頼をうけていた。よもや清麻呂がもたらす託宣が道鏡の夢を打ち砕くとは思ってもみなかっただろう。
清麻呂は『我が国家(くに)開闢(ひら)けてより以来(このかた)、君臣定りぬ。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天(あめ)の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうしょ=皇室)を立てよ。無道の人はすみやかに掃(はら)ひ除くべし』(続日本紀)との託宣を伝えた。
道鏡は激怒し、清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ大隅国に配流。広虫も狭虫と名を改められて備後に流される。
京都の護王神社には「いのしし」が多く飾られている。上の写真には狛犬(こまいぬ)ならぬ狛猪(こまいのしし?)が、左の手水も猪の口から水が流れ出している。その背後にあるガラスケースの中には数え切れないほどの猪が飾られている。
なぜ、護王神社は猪を飾っているのかというと、配流地の大隅に向かう和気清麻呂を亡き者にするため道鏡の命をうけた暗殺団が送られるが猪の大群が彼らを倒し、清麻呂を守ったとの話が伝えられているからである。
称徳天皇がにわかに病に倒れたことによって道鏡の政治権力は失われ、逆に下野國薬師寺別当に左遷させられることになる。
続日本紀には『…今、先聖の厚恩を顧みて、法によりて刑(つみ)に入るることを得ず。故(かれ)、造下野國薬師寺別当に任して発遣す。…』とある。
天皇になろうとした男、弓削道鏡は夢かなわず、下野國で2年後に没する。
和気清麻呂と広虫は許されて都に戻る。
その後、桓武天皇の時代となり清麻呂は平安京への遷都についてもその中心となり、功績を残すこととなる。
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